合気道小林道場 Aikido Kobayashi Dojo

その1 平成7年4月

 阪神大震災の被害に合われた方々に心よりお見舞い申し上げます。

 私が地震を知ったのは明大合気道部の寒稽古の為、朝5時40分に家を出 て府中街道を走っているときです。第一報は東京震度1、神戸震度4とラジオで放送していました。稽古が終わり帰宅の車のラジオで高速道路の崩壊、ビルや家の火災が報じられているのを聞き、事の重大さを知りました。

 私は東京で戦災、家内は栃木県で今市地震を体験しております。今市地震も歴史に残るような被害で外でのテント生活も一ヶ月以上したそうです。人事ではありませんが、私達ができる事は、被害に合われた方々に気持ちばかりの義援金をさせて頂く事ぐらいです。一日でも早く正常の生活が出来ますよう願っております。

 さて、今年はドイツ合気会30周年、また合気道小林道場と姉妹道場を結んでおります台湾龍山区合気道委員会20周年、合気道小林道場の内弟子第一号の鹿内一民師範ブラジル在住20周年記念講習会がリオデジャネイロで行われます。

 私が招待されますと共に、会員の皆さんが参加できるツアーが計画されています。

 外国での合気道普及の第一歩は、1953年の夏フランスで始まりました。その後、54年ハワイで、また、アジアでは同じ年にビルマ(現ミャンマー)の警察学校で稽古が始まっております。

 私が合気道の稽古を始めたのが1955年4月、大学に入学と同時でした。私は中学生の時から柔道を講道館で稽古をしており、その時知り合いました友人の紹介で合気道を見学に行きました。当時合気道といってもほとんど知る人もいません。現道主の植芝吉祥丸先生が会社に勤務されており、朝と夜の稽古のみで、本部道場といっても1回の稽古に10名〜15名で稽古しているような状態でした。

 1955年6月に、戦後初めて日本橋の高島屋の屋上で公開演武が行われたのを私は見学しております。冬には当時高輪にありました迎賓館で各国大使を招待した説明演武会が開催され、私も先輩の受けをとるために参加しておりました。恥ずかしい話ですが、当日雨が降っており、私は迎賓館とは知らず長靴で行きました。入り口で長靴を脱がされ、裸足で歩かされたのを鮮明に覚えております。

 当時の本部道場には内弟子制度があり、合気道の専門家を目指す人、住み込みながら勤めに通う人や学校に通うひと、なんだか良く分からない居候など、個性溢れる人の集まりでした。私も大学の授業よりも稽古の方が面白く、一日道場にいるようになりました。

 合気道創始者植芝盛平先生は、私が入門した時にはまだ70歳で、お元気で稽古されておられました。突然住まわれている茨城県岩間から上京され、気が向くと道場で指導され、そしていつの間にかまた岩間に帰られてしまいます。

 植芝盛平先生は今後二度と出ないと言われるような武道家でした。ピストルで撃たれた時、相手の撃とうと思う意志が、事前に光の玉となって飛んでくるのを感知し、それをさけたと言う話や、当時現役の関脇天竜を投げ飛ばした話など数限りなくあるような方です。

 植芝盛平先生の指導方法は、技を示すだけで技の説明はほとんど成されませんでした。歩けば技になる、手を上げれば技になるといわれ、入身投、四方投、小手返などの技をされるだけです。
 稽古中のお話は古事記や神様の話で、残念ながら私にはほとんど分かりませんでした。30分位話され突然受身をとらされますので、足が痺れ無い様にと気を使い、その方が大変でした。

 この頃より植芝吉祥丸先生は合気道普及に専念されるようになられました。私もいつの間にか押し掛け内弟子となり、指導に行かれる植芝吉祥丸先生の鞄を持ちお供したり、合気道創始者植芝盛平先生の身の回りのお世話をさせて頂く様になりました。失敗談は数限り無くあります。翁先生を熱湯のお風呂に入れようとしたり、植芝吉祥丸先生の講習会の時、先生の袴を忘れたり、電車で居眠りをしてしまい段・級証状の入った鞄を忘れたりもしました。代稽古に行けば、熱心さのあまり力いっぱい投げたり、間接を捻ったり、さすがに二週間連続して救急車を呼ぶような怪我人を出す稽古をしたときは、散々怒られました。ある道場の責任者から小林を止めさせろと怒鳴り込まれた時、植芝吉祥丸先生が一言「ああ言うとぼけた人間が道場に居てもいいじゃないですか」と言って下さり、合気道小林道場が現在あるのです。


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