合気道小林道場 Aikido Kobayashi Dojo

その11 平成12年4月

 合気道小林道場もお陰様で2000年という新しい年を迎える事ができました。道場開設以来、入門者の数も道場の数も増えてきています。この新たな千年紀にあたり、合気道の歴史を簡単に振り返ってみたいと思います。

 合気道の創始者である植芝盛平翁は、1883年(明治16年)和歌山県田辺に生まれました。若いときは身体が病弱であったため、色々な柔術を学び身体を鍛えるとともに、大本教を中心とした精神的な修行をしました。そして、それらを集大成して新たな武道を創始し、大正の末期から「合気道」と名乗りました。

 戦前・戦争中は、武道界では注目されておりましたが、一般にはあまり普及されていませんでした。しかし戦後、二代目道主植芝吉祥丸先生が一般への普及に乗り出しました。合気道の稽古は、正勝吾勝(正しい事を行い、己の心中の争う心に打ち克つこと)にあります。稽古方法も投げたから勝ち、投げられたから負けと云う勝負を争う方法では無く、お互いに投げ、投げられる中で修行していくので、今まであまり武道に関心の無かった人達も引きつける様になり、合気道の輪が広がっていきました。海外でも相手に打ち勝つ方法としての武道の中にあって、相手と争わない和の武道として合気道の稽古方法が理解され、「動く禅」などと言われるまでになりました。

 私が入門したのは二代道主吉祥丸先生が普及に乗り出す少し前の1955年4月です。戦後初めての一般公開の演武会が5月末に日本橋高島屋デパートの屋上で開催された時も知っております。二代道主を中心に合気道本部道場の内弟子達が一丸となって普及努力する一員として微力ですが協力させて頂きました。

 1969年開祖植芝盛平翁が入神された年の4月に、小平の自宅に18畳の道場を造り合気道小林道場を発足させました。難しい武道理念よりも私自身が合気道の稽古が好きで心身の鍛練に良いものだと感じており、この合気道を一人でも多くの人達に知らせ稽古してもらう事を小林道場のモットーとしました。

 五十嵐和男、畑山憲吾、堀越春芳、石垣晴夫、長谷川弘幸各氏を第一期の指導部員として指導の助けを借り、所沢・八王子・元住吉などで合気道の輪を広げるとともに各自の修行もしてもらいました。

 合気道小林道場は、小平道場を中心道場として三多摩、埼玉、神奈川、千葉へと広がっていきました。しかし、広がると共に技の地域格差や相違点が出てきました。それを解決するため、新宿の本部道場で、年三回審査、年一回の岩井海岸での合宿等を行っております。

 私は、1975年小林道場内弟子第一号の鹿内一民氏をブラジルに派遣するときに同行し、帰国時にはアメリカ各地を指導しながらまわりました。その時に、海外での合気道の発展を予感しました。

 その後、海外との交流を深めるため五十嵐師範をスウェーデン、畑山師範をドイツ、堀越師範を台湾に長期・短期に派遣し、海外での指導の体験をさせました。小林弘明指導員も青年海外協力隊の合気道隊員としてインドネシアとポーランドに派遣されました。

 海外と交流し始めると、日本でのいっそうの稽古を熱望しながら、経済的理由で来られない優秀な人達が、たくさんいる事に気づきました。小林道場と会員有志からのカンパで、一人でも多くの人達に機会を与えるための「むすび基金」が1992年に発足しました。

 現在まで九年間でインドネシア、フィンランド、スウェーデン、韓国、台湾、ハンガリー、アルゼンチン、ブラジル、パラグアイ等25名(支払総額250万円)が男女の別なく小林道場に住み込み修業して、各国合気道の発展に貢献しております。

 この様な努力が認められ1987年日本武道協議会から、個人の団体として初めて、表彰を受けることができました。

 現在合気道は三代目植芝守央道主に引き継がれております。合気道小林道場の指導部も第二期の指導部員として小林弘明五段を中心に増田学五段、諏訪雅俊五段、小柳俊一郎三段が、各道場の幹事の助力を得て普及に努力しております。

 自分自身の向上としての厳しい稽古と指導理念、指導法で厳しい中にも楽しさがある指導をして、子供クラスはもとより、一般クラスの方々にも好まれる立派な指導員として教育して行く覚悟です。


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