合気道小林道場 Aikido Kobayashi Dojo

その7 平成10年4月

 私は1969年に小平の自宅に手作りの18畳の道場を建て、1972年には所沢に道場を開設しました。それと同時に本部道場の指導員を辞任し、三多摩、埼玉において合気道の普及に専念するようになりました。合気道発展の為、一人でも多くの人に合気道を多努力してきましたが、苦労するのが稽古する場所の確保です。市や町の体育館、貸し教室、道場等苦労して探しています。稽古には広いスペースと畳やマットが必要です。たくさんの人が集まるので稽古の時の騒音や駐輪場、駐車場等の問題もあります。やっと探して借りた場所が、又貸しで稽古初日に中止になった事もあります。公民館などは畳やマットが有りません。しかも私物は置かせてもらえないので、マットを寄付し稽古をさせてもらっています。体育館などではとなりで柔道、空手など他の運動を行っている場合もあります。剣道と隣り合わせると、その掛け声や竹刀の音に悩まされます。エアロビクスのレオタード姿を横目で見て気が散るなどと云いながらの稽古、三鷹台道場はスイミングスクールですので泳ぐ姿を見ながらの稽古もあります。

 場所探しには、会員の人達も色々と協力してくれます。自分の職場の鍼灸治療院や学習塾を提供して下さり、ベッドや机、椅子を移動して場所の確保をしています。

 合気道本部道場での修業時代や、指導員時代も稽古場所では苦労しました。私が合気道本部道場に入門したのが1955年4月、大学に入学したのと同時でした。戦後10年やっと世の中が落ち着いてきた時代です。世間に合気道は殆ど知られておりません。本部道場といっても外の塀は倒れかけ、50畳の道場の畳はぼろぼろに破け、稽古している人達も一回10人ぐらいでした。おまけに戦災で罹災した二家族が板壁一つで仕切った道場に住んでおり、朝晩の稽古の時間が食事時と重なるので、みそ汁、魚の焼く匂いが漂います。現道主も早く出ていってもらいたくて我々がわざと稽古中に壁にぶつかるのを黙認してくれました。大学を卒業と同時に指導員に成りましたが、支部道場は練馬の鍬守道場、川崎の杉野道場くらいで他には殆ど無く、六本木、市ヶ谷の自衛隊、立川、朝霞、座間の米軍基地、NHK、カルチャーセンターの走りの産経学園、宮園タクシー、と幾つかの大学合気道部があるだけでした。稽古といっても道場が無く、六本木の防衛庁本庁では一号館の屋上に昼休みに畳をひき稽古です。夏はビニールの畳が立っていられないほど熱く、一教で押さえると手の甲が火膨れになったり、冬は寒さに震えながら稽古、風の強い日は畳がめくれたり、風でとばされ何回かは金網を超えて六階の屋上から落ちた事があります。勿論雨の日は中止です。当時内幸町に在ったNHKも屋上で稽古しました。稽古熱心な人が居り雨の日は階段の踊り場で稽古した事も何回もありました。タクシー会社では仮眠室が道場代わりです。朝稽古に行くとまだ寝ている人がいます。さあ稽古だと云いながら寝ている人達の蒲団をはがし、一緒に蒲団をたたみながら一人でも多く稽古に参加するよう呼びかけました。

 私が部の創立に関係した明治、埼玉、東洋大学の合気道部も例外では有りません。畳の有る道場は柔道部専用で、殆ど知られていない合気道には道場を貸してくれません。貸してくれても授業の有る午前中か、良くて昼休みです。試合があるから、先輩が来ているからなどの理由で簡単に追い出されます。埼大では体育館を借り自分たちでアルバイトをして畳を買った事もあります。明大では30畳の町道場を借りましたが、当時合気道が珍しかったため新入部員が50〜60名も入部し道場は部員が立っているだけで満員なため、半分皇居を走らせ帰ると後の組をマラソンに出したりしました。同じ部員同士で全然顔も知らない時代もありました。校内に道場を確保出来たのは創部十年以上経ってからです。

 海外での指導は講師として呼ばれますので私自身道場の確保の苦労はありません。しかし海外でも、皆様稽古場所の確保に一所懸命です。フィインランドでは、非常時の避難用として創られた核シェルターの広い空間を利用して道場としたり、ドイツ合気会の三十周年記念講習会では室内陸上競技場を確保し、千枚の畳をひきつめ講習会を行いました。パラグアイでは日本の援助で出来た日本に無い様なギリシャ神殿風の体育館で稽古を行い、インドネシアでは大蔵省の一階ロビーが稽古場所ということもありました。このように世界のあちこちでも、合気道の稽古をしたい人達が今日も道場探しをしています。

 合気道小林道場は一人でも多くの人々に合気道を稽古してもらい、その良さを理解して頂こうと日夜努力しています。身近な場所に稽古出来る場所が有りましたらお知らせねがいます。


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