合気道小林道場 Aikido Kobayashi Dojo

平成23年4月

合気道節目の年

「東北地方太平洋沖地震」と名付けられた地震が三月十一日午後二時四十六分に発生しました。三陸沖を震源とするマグニチュード九・0の国内観測史上最大の巨大地震が発生し、北日本から関東にかけて強い揺れと津波が襲いました。この地震により被害を受け亡くなった方々、怪我をされた方、家屋、財産等を失った方に心より哀悼の意を表します。

幸いに合気道小林道場は被害がありませんでした。また、東北におられる小林道場と親交のある師範方も全員無事が確認されました。一日も早く災害が復旧し、日常生活が平常通りに行えますように願うばかりです。

話は変わりますが、今年は合気道にとって大きな節目の年です。合気道本部道場開設八十周年、財団法人合気会創立七十周年、そして本部道場で昭和三十四年四月号から月一回発行している合気道新聞も創刊六百号になるそうです。この様に合気道が日本はもとより世界に広がるには二代道主植芝吉祥丸先生の大きな決断によるものであることを私は実感しています。

合気道小林道場の会員にとって、新宿の合気道本部道場は五級以上の審査受験の場として認識されている人がほとんどでしょう。私は昭和三十年四月に本部道場に入門しましたが、当時の本部道場は戦災を受けずに焼け残った木造一階建の古びた植芝家の自宅兼道場でした。ぼろぼろの五十畳の道場で合気道の稽古は続けられていました。道場の一部にはまだ戦災で罹災した二家族が住んでいました。昭和三十二年には道場を占拠していた罹災者も出て行き七十畳の道場として稽古ができるようになりました。この頃から戦後の合気道発展の一歩が踏みだされました。

植芝吉祥丸先生のお話では昭和二十年四月十三日に新宿、神楽坂、市ヶ谷、飯田橋、九段等が米軍のB29に空襲され焼け野原になりました。私の九段の自宅もその時の戦災で焼失しました。吉祥丸先生達は昭和六年に建てられた木造の道場を火災から必死に防いだそうです。回りの家々は焼けましたが本部道場だけは吉祥丸先生達の努力もあり焼け残りました。もしも本部道場が戦災で焼けていましたら東京で合気道を稽古する中心の道場が無く、植芝盛平翁先生の住まれていた茨城県岩間での稽古になり、東京での合気道の基礎を築く事ができず、合気道の現在の隆盛は考えられなかったかもしれません。この事だけでも吉祥丸二代道主の功績は図り知れません。

昭和二十年八月十五日の終戦により、マッカーサー元帥を司令長官とする進駐軍により日本統治が始まり、戦後昭和二十八年まで武道禁止令がだされました。吉祥丸先生は戦前に「財団法人 皇武会」として認可を受けていた本部道場を合気道普及の中心とするため、「組織」の改革に直ぐ着手したそうです。昭和二十三年二月には「財団法人 合気会」と名称を変更し文部省の認可をうけました。当時の気持を吉祥丸先生は「あの時の感激というのは、生涯、忘れません。合気道の復興を、道遠きものと定めていたのが、予想外に早い認可となり、勇気百倍となりました」と話していました。吉祥丸先生が当時の文部省に提出した文章の一部を抜粋しますと、「合気道は一種の舞楽道と健康道とを兼ね備えた遊技ともなり、体育でもあり、人格涵養の至術でもあり、生命の金殿玉楼を造るものであり、活動力の源泉を養成するもので有ります。・・・又必要に応じては如何なる方面にも無限の変化を為し、機に臨み変に応じ得る迫力も備はり気魂の力は自然に蓄えられ・・・均衡のとれた心身ともなり、柔順、強剛、叡智、至誠の四徳を得る妙術であります。・・・」とあります。武道という言葉を一切使用することなく、文部省に提出する文章に吉祥丸先生が如何に苦労されたかを感じさせます。

私は吉祥丸先生が積極的に合気道を一般公開した昭和三十年五月の日本橋高島屋での演武会へのお手伝い、母校である明治大学合気道部を創設、また今年創立五十周年を迎えた東洋大学、東京経済大学、学習院大学や今年四十五周年の埼玉大学合気道部の創設と指導に携わってきました。

合気道に関わる様になって五十六年なります。昭和三十年代の事を知る人達も少なくなっています。一人の語り部として機会有ることに残していきたいと思います。


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