合気道小林道場 Aikido Kobayashi Dojo

その16 平成14年10月

 今年も五月十九日に全日本合気道演武大会が九段の日本武道館で開催されました。合気道小林道場からは約百五十名の会員が参加し、五面の演武会場で日頃の稽古の成果を発表しました。

 今年は第四十回目の記念演武大会で、私の演武の時には次のようなコメントを解説者にお願いしました。

 「一九五五年四月に本部道場に入門以来、合気道創始者植芝盛平翁先生、二代道主植芝吉祥丸先生、三代道主植芝守央先生に御指導を受け修行を続けてまいりました。一九六一年に第一回の大会が新宿山野ホールで開催されて以来今回の四〇回大会まで連続して参加させて頂きました。私にこの様な頑健な体を与えてくれた両親、自分の好きな合気道を続けさせてくれた家族、それを支えてくれた小林道場の指導部員、会員の皆さんに心より感謝いたします。」

 思えば四十年一度も欠席することなく全日本演武大会に参加しています。

 戦後初めての一般公開演武は一九五六年九月に日本橋高島屋の屋上で開催されました。私は演武をしませんでしたが、その準備には参加しました。それまでの合気道の演武会といえば、開祖・植芝盛平翁の説明と演武が中心でした。

 植芝盛平伝によると「武道とは身命を賭する必死の行であるがゆえに、奥義はその道に励み修せんとする者のみが見聞を許されるべき秘事である、みだりにこれを門外にもらすなどは武道への背信行為である」と述べられています。二代目吉祥丸道主が一般公開演武開催にあたって、開祖の説得がいかに困難な事あったかを私は身近にいて感じていました。これは血のつながった親子だからできたことであると私は思いました。

 その後何回かは、デパートの屋上や、迎賓館、朝日新聞社ホールでの演武会を行いました。そして、一九六一年に第一回全日本演武大会として新宿山野ホールで開催され、第二回からしばらくは、日比谷公会堂で開催されるようになりました。

 演武会の日は、開祖お付きの内弟子はとても大変です。なぜなら、開祖が会場に早く着いて演武されると、その後は誰も演武ができなくなるからです。せっかく地方から上京した人達が演武できない事になったらかわいそうです。ですから、開祖をいかに道場に引き留めるかで私達内弟子は頭を使います。道場の全部の時計を遅らせたり、車に乗ってからも遠回りをしたりします。「新宿から日比谷に行くのに何故上野を通るのじゃ」などと怒られながらタイミングを見計らって開祖を会場にお連れします。着いてからも何かと先生の気をそらし、進行係からの「出番です」の声が掛かるまで気が気でありませんでした。

 一九六四年四月二十六日に開祖が入神され、翌年に開祖追悼演武会が日本武道館で行われてから、現在のような形での演武会になりました。

 合気道がこれだけ海外に広がると演武会もお国柄が出てきます。シンガポールの「大丸デパート」の開店記念に演武を行いましたが、ディスコ音楽をがんがん掛けた中での演武で、初めは違和感がありました。しかし慣れてくると、技の動きと音楽が合う様になり、楽しく演武できました。ビデオシリーズの「師範演武集」にその一部が収録されていますので、ぜひご覧下さい。

 一番驚いたのは台湾での演武大会です。台北市合気道委員会の会長は電器販売会社の社長で、合気道は稽古していません。そして、その時の演武会の費用を全て負担しました。彼のイメージに沿って演武会が行われたわけですが、演武会場はスーパーの大売り出しさながらの様でした。のぼりや風船がいたる所に立ち、入場券には番号が書いてあり抽選でテレビ、冷蔵庫等の電器製品が当たるので、それお目当てにした観客で会場が満員でした。

 一番絶句したのは、社長がおかまの劇団を応援しているとの事で、合気道の演武の休憩時間にマリリン・モンロー姿の「おかまショー」や、演歌「九段の母」の寸劇が始まったりとやりたい放題でした。大会役員に何故反対しなかったかと詰問しましたが、「会長が全費用を出しているので押し切られた」と、平身低頭していました。今になっては結構貴重な体験だと思っています。

 合気道は試合で相手と勝ち負けを争う事はありません。稽古している人達の成果発表の機会である演武会は重要な稽古の一部です。

 各道場の人達が集まり稽古の成果を見てもらい又他の人の演武を見て、この様な技もある、あの様な捌きもあると認識し、以後の稽古の糧にする事が大切です。

 会員の皆さんは演武会が開催される時にはぜひ奮って参加してください。


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