合気道小林道場 Aikido Kobayashi Dojo

その19 平成16年4月

 今年で私が合気道を始めて五十年になります。過ぎてしまえば一瞬の様ですが、思い返せばこの五十年間で色々な人々に出会い、数多くの貴重な体験をしました。この出会いは、私の合気道人生の中でも大きな財産になっています。

 私の合気道人生は、昭和三十年四月に合気道本部道場に入門して始まりました。終戦から十年経ち、少しは世の中が落ち着き出した頃で、私が明治大学に入学した年です。合気道は友人の紹介で知りました。その友人とは、元関取で居合道連盟会長の檀崎友彰氏の長男でした。友人は三日で止めましたが、私は、「一度始めたことは止めるな」との父の一言で、続ける事ができました。

 その当時は、合気道がまだ世に広く知れ渡る前で、稽古に来られていた方々は、どちらかと言うと、開祖植芝盛平先生を慕って来ていた感じでした。名前を挙げると、西式健康法の方々、玄米食の桜沢如一氏の会員、心身統一の団体である天風会員や、山岡鉄舟のながれをくむ禊ぎ団体の一九会関係者などです。会合になると旧陸海軍の軍人、満州浪人だった人達なども集まります。印象に残っているのは、馬賊の首領になった小日向白郎氏と、彼を捕まえる為に追い回した窪田某氏です。

 植芝先生は武道家との交流も盛んでした。忍術の藤田西湖氏、神道自然流空手家小西康裕氏、剣道家芳賀純一氏、黒沢映画「七人の侍」や「用心棒」などの殺陣を指導した、香取神道流の杉野嘉男氏なども来られていました。余談ですが、後に私は杉野先生の道場で十年近く合気道を指導しました。また相撲取り天竜氏の関係の人も来ていました。天竜氏が植芝先生に投げられ弟子になった話は有名ですので、皆さんも聞いたことがあると思います。

 翁先生は宗教家でもあったため、宗教関係の方々も出入りしていました。大本教や白光真宏会の方々です。それ以外にも、私の常識では理解できない、宗教者や教祖のような人もおられました。

 道場に来られる方々は本当に多士済々で、色々な人達と知り合う事ができ、大いに勉強になりました。学生だった私は、時間があると色々な会合に誘われて出席していましたが、合気道の稽古以外は、のめり込む様な事はありませんでした。

 様々な人が出入りしていましたが、実際の本部道場での稽古の人数は、十人から十五人位でした。指導をされていたのは、アメリカに初めて合気道を紹介した藤平光一師範部長を筆頭に、岩間で合気道の道統を守るが口癖であった剣・杖の斎藤守弘師範、色々な武道を修め独特の理論を展開する西尾昭二師範、空手から合気道に転向された有川定輝師範、剣道からの山口清吾師範、そして多田宏師範でした。

 内弟子達は、現在ヨーロッパやアメリカで活躍されている方々がなっていました。フランスの田村信喜、野呂昌道、ドイツの浅井勝昭、ニューヨークの山田嘉光、菅野誠一、ワシントンDCの五月女貢、ボストンの金井満、サンディエゴの千葉和男の各師範方が、私と前後して内弟子になっていました。植芝吉祥丸二代道主がまだ三十歳前半で、内弟子達は二十歳前後。みんな若く血気盛んな頃で、激しい稽古をしていました。

 昭和三十三年頃になると、稽古に来る人も少しずつ増え始めました。特に大学生が多く入門してくるようになりました。吉祥丸先生が積極的に大学で合気道部をつくる事に力を注いだので、お互い協力し合い、各大学に合気道部ができ始めました。私も明治大学に合気道部を創りました。各大学に合気道部ができると、大学合気道連盟を結成する事となり、東京大学合気道部員の亀井静現議員などと議論したことも、良い思い出になっています。

 大学を卒業後は、本部道場の指導部に入り、本部での稽古以外に各支部、防衛庁、大学などを指導して回るようになりました。プロ野球大毎オリオンズの荒川博氏を個人指導した事もあります。合気道が野球に応用できないかと稽古に来たのです。荒川氏は高校生時の王貞治選手の才能を見いだした人です。巨人軍の打撃コーチになった時、合気道をヒントに有名な一本足打法を考えだし、世界の王選手に育てました。そのため長嶋、広岡、沼沢、山内等当時の巨人軍の選手が何回か道場に現れましたが、実際に合気道の稽古をしたのは広岡、沼沢選手だけでした。ある日、王選手に本部道場から新宿駅まで車で送ってもらった事がありました。駅に着いて車から降りる時、王選手だと気づいた人達に取り囲まれ、往生したのを憶えています。

 映画俳優も稽古に来たことがありました。高倉健を一週間、毎日一時間指導したことがあります。ある日のスポーツ紙には、合気道三段と出ていました。一緒に記念写真を撮ったのを覚えています。

 昭和四十年代になると、一緒に稽古していた内弟子達が続々とヨーロッパ、アメリカへと指導に出ていきました。日本国内では、武道で生活してゆけるとは思えなかったからです。私も色々誘われましたが、合気道の稽古をもっと行いたくて全て断りました。海外に行った師範たちは、それぞれの国で苦労して合気道を広めました。それが現在の発展につながっていったのです。

 私は自分の修行をしながら本部の指導部員として、合気道の発展の為、微力ながら努力しました。

 背中の筋肉を痛め稽古できない時期がありました。指導員を辞めた訳ではありませんでしたが、生活出来ない事を心配した雑貨商の父が、現在の小平道場の場所に雑貨店と結婚の手配をしてくれました。家内にお店を手伝わせて、自分は合気道をしようと思っていたら、「商売人と思って結婚したので、あなたが商売をしないなら私もしません」の一言。自分も合気道をやりたい気持ちの方が大きく、開店大売り出しをするヒマもなく店を閉めました。さらに家内は「亭主は妻子を扶養する義務があります。私は家庭を守るので、今後一切働きません。」と言われ、金銭的には苦労しました。

 私の人生を大きく変えたのが安保闘争です。大学生を中心に全国的なデモを行いました。合気道部を指導していた明治大学、埼玉大学は拠点校で学校はロックアウトになり、授業も稽古も半年以上できません。目的を失った学生達が酒、麻雀そして無益な議論に時を過ごしているのを見て、今後日本はどうなるのか悩みました。

 自分が彼らにできることは合気道しかありませんでした。彼らに稽古する場所を提供するために、自宅の店舗部分を道場に造りかえる事にしました。お金がないので当然自分で手作りです。これが合気道小林道場の発足です。昭和四十三年十二月二十五日に本部道場が休暇に入りました。まず物置を壊して作業に取りかかりました。簡単に考えていましたが、実感として一年掛かってもできないと思いました。決心した以上中止するわけにも行きません。自分を奮い立たせるため、会う人々に「四月に道場開きをやるから来て下さい」と話し、同時に年賀状にも書いて出しました。年賀状を見た大学合気道部のOB達が、資金カンパを始めてくれました。本部道場で個人稽古をしていた高野耕作氏(現麻布道場長)が大工の棟梁で協力を申し出てくれ、昭和四十四年四月七日に無事道場開きを行う事ができました。お祝いには二百五十人もの人が集まり夢のようでした。

 このように、私の合気道人生五十年の中で、人との出会いが一番貴重で、且つ財産であると感じています。これからも、人との出会いを大切に更に修行に励みたいと思っています。


このページの先頭へ